kayakaya日記
Jan 11, 2010 (Mon)
# 2010年年度聖句 ガラテヤの信徒への手紙3章26節
2010年の年度聖句を記しておきます。ガラテヤの信徒への手紙から。
あながたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。
ガラテヤの信徒への手紙3章26節
You are all sons of God through faith in Christ Jesus. for all or you who were baptized into Christ have clothed youselves with Christ.
Galatians 3:26-27 (New International Version)
ふりかえると2003年12月に洗礼を授かりましたから、今は受洗から6年と1ヶ月になります。その間にいろいろな出来事があったのですが、僕が洗礼を受けたことは誰も(自分も)覆すことができません。洗礼の事実は一生そのまま変わりなく、これはある種の足枷なわけですね。と云う当たり前のことですが、日々これを実感するのはなかなか難しいものです。ふとしたことで思い出すくらいでしょうか。洗礼を受けた事実と洗礼を受けて歩むことの意味を確認したいがために、このガラテヤの箇所を選んだ訳ではありません。洗礼も大切なポイントですが、むしろ「キリストを着ている」という表現からでした。
26節は次のように続きます。
そこでもはや、ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。
ガラテヤの信徒への手紙3章27節
民族も、社会的な地位も、男女も、キリストの下では存在しない。「法の下の平等」はこれに由来していると考えて間違いないわけですが、平等が保障されていても、皆同じような人間ではないですね。人にはそれぞれ違いがある。これもまた当たり前のことです。もちろん、「神の下の平等」や「法の下の平等」が実現されているかは甚だ怪しい。ただし、これには踏み込みません。不平等な事実が世の中には存在することを心に留めておけば良いでしょう。別の視点で考えてみると、民族、社会的な地位、男女の差を超越しても、人には心の壁があります。そうですね、電波なことを書くと、エヴァのATフィールドみたいなものかもしれません。ATフィールドみたいに閉じていれば良いのですが、そう簡単にはいきません*1。人の心には好き嫌いがありますし、あの人は苦手だとか、さらにはもっと嫌いだから会わないこともありますね。人と人に間にはどこかに対立があります。きっぱり言ってそうです。些細なことから大きなことまで。社会的な地位に関係なくあります。対人関係なんてそんなものです。自分を偽って良い顔をして人付き合いしてもつらいものです。キリストの愛が云々のキリスト教徒が云うな、とツッコミいれられそうですが、キリスト教徒もこの点においては普通の人間と変わらないです、ときっぱりと言い切ってしまいます。僕自身好き嫌いによって人と縁を切ったことがありますし、その逆もあります。褒められたことではありませんが、積極的に恥じることでもないでしょう。
では、何が云いたいのか、「あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。」。一つであったとしても、違いはあります。さらには好き嫌いもある。残念ながら好きだけではないのですね。どこかに負の感情が存在しています。誰かを傷つけることになったり、嫌な思いをさせてしまう。先の僕の例では、友人と縁を切ったりすることは典型でしょう。その友人の痛みは僕には分かりません。分かりませんが、その痛みをどこかで想像して生きてゆくしかないのだなぁと思っています。その友人に象徴される他者の痛みをまったく想像しないとすれば、自分はキリストに結ばれていないのではないか、と考えるのです。腹わたが突き動かされるほどの憐れみ<アガペー>を誰かに感じるならば、キリスト・イエスにおいて一つ、と云えると思います。ちょっとだけでも痛みを想像することが<アガペー>に繋がるのか、それについてはよく分かりません。が、大切なことだと思います。いろいろな人間関係がありますし、どうしようもなく解決できないこともあります。その痛みを想像しつつ人との縁を切ることができれば良いのかなぁと。縁を切ったからまったく知らない、ことは考えものです(心の平穏を考えればそれもアリだと思いますから全否定しません)。
話を戻しますが、「キリストを着ている」とは、さまざまな社会の立場を超えて存在する人間関係で、痛みを想像しつつ生きることだと思います。誰しもまったく人を傷つけることなしに生きることは不可能です。そのことを意識して、痛みを与えたのだと自覚して、痛みを想像するのだと意識して、歩んでいくことが「キリストを着ている」ことだと思ってます。痛みを感じ続けるとそれは重すぎるでしょうし、神さまに任せてしまうべきことでしょう。
ときに対立することもある人間関係の中で、「痛み」を意識して生きてゆくことが大切なのかなぁと思い、この聖句を選んだのでした。なお、洗礼を足枷と表現していますが、他者の「痛み」を意識して生きることへの足枷でもありますね。と云うより、それが「洗礼」なのかもしれません。
*1 ATフィールドについての見解が違う!という意見は多々あるはず。ごめんなさい。
年間聖句(2010年)
あながたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。
新共同訳聖書ガラテヤの信徒への手紙3章26節You are all sons of God through faith in Christ Jesus. for all or you who were baptized into Christ have clothed youselves with Christ.
Galatians 3:26-27 (New International Version)
