kayakaya日記
Aug 05, 2009 (Wed)
# 『パターン、Wiki、XP~時を超えた創造の原則』(江渡 浩一郎)
なんとまぁ、刺激的な本でしょう。刺激的すぎて、正直なところ、どうまとめて良いのか自分でも分かりません。個別に思ったことをつらつらと書いてみました。読書メモまとめなので、『パターン、Wiki、XP』を読んでない人は分からない可能性大な日記です……ご勘弁。
都市はツリーではない、について
人工都市(artificial cities)と自然都市(natural cities)。些細なことですが、アレグザンダーは計画都市(planned city)という言葉を使っていません。建築の世界はまったくと言ってよいほど知らないのですが、都市計画の用語では、計画都市が普通のような気がします。と思って検索してみたら、建築家の人は人工都市の言葉を好むみたいですね。
さて、「都市はツリーではない」では、京都が自然都市に分類されています。京都は今や古都ですが、当時は先進的な計画都市だったはず。それがアレグザンダーには自然都市には見えている。たいていの門前町や宿場町などは自然都市ぽい発祥ですが、計画的な都市も何らかの成長を経て、人間として美しいと感じられる自然都市になる、つまり都市は成長してゆくものだという点にアレグサンダーの立場を強く感じます。そこで気になるのは、当初はツリー構造として設計された都市も、結果的にセミラティス構造を持てば良いわけでしょうか。アレグザンダーはニュータウンを人工都市だとしています。では、今後これらの都市がどのように変遷してゆけば、セミラティス構造になって住みやすくなるのでしょう。そのような都市の住人としては、そこが気になりますよね。彼の参加の原理と漸進的成長の原理で、セミラティス構造になってゆくものなのかどうか。また、目に見える効果はあるのかと。住民参加と云えども、そこにメリットを見出せない限り、住民も街づくりに参加せずに、他の住み良い街に移ってしまうかもしれません。バークレーの再建は、住民参加だったにも関わらず、行政や法制度などの壁で実現しませんでした。彼のやり方では、現実の地域社会のあり方を変えられなかったという評価は興味深いです。もちろん1970年前半という時代抜きには語れません。とはいえ、インナーシティ化した街の再開発に住民参加で成功した事例も増えてきました。アレグザンダーの思想は今の再開発にとっても考える意義はあると感じました。そういえば、以前検索していて、川越の町並み保存にパターン・ランゲージが利用されたと知りました。確かに伝統的町並み保存には向いているかもしれないなと。パターン・ランゲージの受容という意味では気になります。普通の感覚としては、川越の町並み保存はそこそこ成功している事例ですよね。「パターン・ランゲージを用いた」くらいの表現で書いてあるので、過程が見えないところが残念なところ。
人工都市でも限りなく自然都市にしようとした都市として思い浮べたのが、フロリダ州にディズニーが造ったセレブレーション。システムのサブシステムにならないような……複合的な空間デザインをしている街、発想としてはセミラティス構造になるように造られていると思います。けれども、トップダウンでマスタープランにのっとって建設されたという意味では、バリバリの人工都市です。アレグザンダーが「都市はツリーではない」を発表したのが1965年、セレブレーションが1990年代。モダンな都市計画が見直された頃でしょうか。セレブレーションは、ディズニーの"ノスタルジック"な思いが反映されていますが、アレグザンダーのような考えはどの程度受け継がれているのか、またアレグザンダーは、セレブレーションをどう評価するのか、その辺りは気にかかるところです。アレグザンダーは非主流派な建築家だそうですが、皆さん人工都市には似たような疑問は持つわけですから、どこかしらで影響を受けているところもあったと勝手に想像します。派生しすぎると収集つけられないですが(建築の思想は知らないので暴走しそう……)。
「無名の質」 QWAN、について
「無名の質」って捉えにくいですよね。パターン・ランゲージのことから考えてみました。
- 人間は、訓練を積めば都市や建築の構造からパターンを見出せる
- 人間の直感はコンピュータが計算しきれない緻密なパターンの組み合わせを見出せる要素
アレグザンダーは見えないところにある技能や知、美を見えるにすることに関心があるよう読めます。「無名の質」はそう単純ではなさそうですが、感覚では、無名の陶工の作品から、美(機能でも可)の要素を集めてくるようなものですかね。すごい作品を創造やろうとして生み出されたものではなく、普通の日常生活や生産活動から発見されるものなのかな、と感じました。ただ、この手の話はどこにでも転がっていますから解釈がとても難しいですね。事実「無名の質」って何は人それぞれのようですで、
「アレグザンダーの追求した“無名の質”って、匿名(ななし)クオリティ=2ちゃんねるやニコニコ動画のことじゃね?VIPクオリティってことでおk?」("無名の質"とは自然都市が「なんかいい」と感じられることだったり、「自分が最もいきいきする」ことだったり。)
という発言も。シンポジウムの動画はまた見てないので、これだけ抜き出すのは卑怯かなーと思うのですが。まぁ、釣りみたいな文句なんで、釣られてみましょう(笑)。実際、名言だと思います。けれども、匿名を意識した活動の積み重ねが「無名の質」ではないでしょう。匿名も、実名であろうとも、誰かしらの日常の積み重ねから発見されるクオリティが「無名の質」なんじゃないかなーと。匿名性の問題は関係ない。匿名の集積のこともあるだろうし、ただ一人の特定される個人の活動かもしれません。著名なプログラマのコードにも潜んでいることがあるのではと思うくらいです。ただし、結果として属人性はあまり意識されないでしょう。パターンが今まで見えてなかった構造や知を発見して見えるようにたカタログとして考えれば、その対として、発見されるものとしての「無名の質」があると捉えました。「無名の質」の本質ではありませんが、「無名の質」を考えるきっかけにはなるかなと感じてます。しかし、実際のところ、老子が出てくると……迷宮に入りこんで二度と帰ってこれないかもしれませんね……。
ソフトウェア開発におけるデザイン・パターンとXPについて
受託や請負の仕事をしたことがある開発者なら誰でも考えることだと思うので、書いておくと。デザイン・パターンが受け入れられて、開発プロセスをラディカルに変えなくても導入できたからでしょう。開発者同士のコミュニケーションや設計法や実装の考えとして使うのに有用だったと思います。僕自身デザイン・パターンというものがありますよと紹介して、こんな風にやりましょうと云えましたし、こんな風に実装しましょう、と合意するのにデザイン・パターンを使った覚えがあります。
で、この頃にはXPの話も聞こえてきました。でも導入できるのコレ?という噂なんです。etoさんの本を読んでみて改めて感じたことは、XPの原則は、漸進的(incremental)が強調されていますが、XPの開発に至るまでの過程はぜんぜん漸進的ではないだろうな、ということです。ふりかえると、アレグザンダーの東野高校のプロジェクトの失敗理由ですが、漸進的成長の原理に反してゼネコンによる施行だったからということが述べられています。バークレーの再建では行政や法制度などの壁でした。いざ、パターンによるまちづくりを実践に移そうとした場合、障害は社会制度です。利用者と設計者によるまちづくりを目指しているのに、それを取り巻く制度に邪魔されてしまう。XPはプロセスですから、開発プロセスを変えることになります。開発を取り巻く制度に挑まないと、XPに辿りつけないでしょう。ITゼネコンという言葉もあるくらいでから。XPへ至る道程は漸進的でなくて革命的にやらないと実現不可能な気がしてなりません。ここは、アレグザンダーが直面した問題と同じなのかなと。どう越えられるのか。そこが評価の難しいところだと思います。
Wiki、 Wikipedia
Wikiの系譜と、Wikipediaの系譜というのは違うものという印象も受けました。極端な話では、WikipediaはWikiである必要があったのかなぁと。そこにWikiがあったからWikipediaを使ったという理由が大きいのではないでしょうか。Wikiのカニングガムを遡ればアレグザンダーに辿り着きますが、Wikipediaのジミー・ウェールズの思想的な背景はアレグザンダーではないでしょう。彼はアレグザンダーを知っていると思いますが、彼にとって大切なことではないように思えます。ウェールズはアイン・ランドの愛好家であったと書かれています。etoさんの本には書かれていませんが、検索してみるとウェールズはハイエクに影響を受けているらしい。検索したけれど元出典に辿り着けず……。ですから、らしいくらいにしておきます。まぁ、具体的に誰の影響というよりは、漠然とオープンソースの流れだと思っているので、こちらの系譜は追わないとダメでしょうねとは思ってます。
パターン、Wiki、XPって?
Wikiは革新的なものだと思ってましたが、その背後にある設計思想は実はちょっと違うんだ、という感想です。ラディカルかもしれないけれど、革新的ではないという意味。
さらに、そこには合理的な判断を常に下すことができるという人間観はありません。あまり近代的ではないと感じたのです。モダン(ま、漠然と近代で)な人間観では人は合理的な判断を下すものだと捉えています。ボトムダウンにしろ、トップダウンにしろ、人は合理的に考えてゆけば、適切な成果物が出来上がるという前提に立っているでしょう。逆に、同じ近代でも、人の合理的判断には懐疑的である人たちは、市場の原理に委ねようという発想に向います。近代といっても思想家によって様々な人間観はありますから、一概に断定するのは要注意です。けれども、合理的な判断を下してゆけば良いものができるはず、そうでなければ、市場や競争に委ねるという対立の流れがありました。しかしまた、そんな単純なものではない、という事実を、たいていの人は実感しています。まぁ、人は単純でないですよね。
Wikiは有機的な結合や漸進的成長の原則を重んじてますが、これは、そのままWikiの使い手の人間にも当てはまるのではないかと強く思いました。変な言い方ですが、「人の考え方はツリーではない」です。人の思考にはセミラティス構造なところがあります。そう割り切れません。様々な考え方が複雑に絡みあって重なってます。このような人への見方(人間観)が適用できる場所では、『パターン、Wiki、XP』の考えも適用するのだろうなと思います。おそらく、人はツリーの一部というところでは成功しないはずです。きっと部品として人を考えざるをえない場所ではXPは無理でしょう。このような話をするとまた暴走してしまうので、この辺りでやめておきますが、アレグザンダーの人間観に同意できるかどうかは重要な気がます。大切なのは誰の考えであろうと、「住みやすい」町を求めると、「生きやすい」人には繋がるのでしょうね。開発もそうなんだろうなぁーと。
自分の話も収束していないのですが、収束しないで、どんどん話しが出きてしまうところが『パターン、Wiki、XP』の最大の誉め言葉です。終りがない物語を読んでいる感じでした。
しかし、とりあえず、こんな思考の人間が、Wikiばなに行ってよいのだろうかと思わないでもないですが、都合もついたし行くのです。楽しみ!
年間聖句(2010年)
あながたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。
新共同訳聖書ガラテヤの信徒への手紙3章26節You are all sons of God through faith in Christ Jesus. for all or you who were baptized into Christ have clothed youselves with Christ.
Galatians 3:26-27 (New International Version)
