2007-12-10
# 不信心な者だからこそ
今日読んだ聖句から
ところで、働く者に対する報酬は恵みではなく、当然支払われるものと見なされています。しかし、不信心な者を義とされる方を信じる人は、働きがなくても、その信仰が義とされます。
ローマの信徒への手紙4章4〜5節
「不信心な者を義とされる方」という表現が目についた。そうか、神は、不信心な者*1だからこそ救われるのかと。罪人*2こそが救われるのだ。主イエス・キリストを信じて洗礼を受けているけれども、今まで、罪のことは意識してこなかったし、ほとんど知らない。けれども、今日、罪ついて、何かストンと落ちた気がする。もちろん全てを知った訳ではない。ただ、片鱗をのぞかせていただいたという感じだ。
この聖書箇所は、「神を信じる人は、その信仰が義とされます」とは書いていない。「不信心な者を義とされる方を信じる人」とわざわざ丁寧に書いている。そこに注目しなければならない。自分が不信心な者、罪人であることを意識することが求められてるのだろう。まさしく「義人なし、一人だになし」なのだ。不信心なものですけれども神さまは私を救ってください、こういう思いが救いには必要なのだろう。
ここで、思い出す、主イエスのたとえ話がある。ルカによる福音書18章9節からの「ファリサイ派の人と徴税人」のたとえだ。神殿で、胸を張って罪がないことを誇るファリサイ派の人に対して、徴税人は『神様、罪人の私を憐れんでください。』とだけ言う。義とされたのはファリサイ派の人ではなく徴税人だった。
主イエスは徴税人のように「へりくだる者は高められる」と言う。へりくだる、この言葉からは様々なことが想像できるけれど、kayakayaは「神の前では、いや、誰の前でも、本当に私は無力で心弱き者です」ということを意味していると思う。
不信心な者でありたいと書くと変な気がするけれども、誰の前でも無力で心弱いものでありたいと表現するとしっくりくる。でも、同時に、kayakayaは日記で聖書の知識をひらかすんじゃないよ、という告白、さらにはその告白がいいカッコしいなことも事実だと認識している。本当に、神の前で無力で心弱気ものであることは難しい。
