kayakaya日記
Dec 03, 2007 (Mon)
# 靴磨き
気分の良いときの暇つぶしといったら何だろうか。いろいろあるけれども、何といっても靴磨きが好きだ。軽く布で汚れを落とした後、歯ブラシで薄く靴墨を付けていく。そしてブラシで磨く。単純な作業だからか、気分が落ち着いていく。気分爽快な時の靴磨きはもちろん気持ちよいものだが、イライラしているときなどにも靴磨きをすると落ち着く。何も考えないでブラッシングするのが頭をすっきりさせるのだろう。そして、成果が目に見えて分かる。短期な人でも、靴磨きはすぐに、成果が出る。それがイイ。もちろん、本当の意味で成果は、靴が自分の足に馴染んで、しっかりと磨き上げられているのが目標だ。それには長い日にちが必要だけれども、今日明日の磨きくらいならば、その日の成果は分かる。あっ、綺麗に磨き上げられてきたなと、そして、その日の成果、言い換えれば、短いゴールを幾度も積み重ねていくと、足に馴染んだ靴という本当のゴールに至る。でも、そのゴールは終わりのないゴールだ。靴磨きに最終地点はない。完成された靴がないのと同じ。それは靴が生き物だから。だから、靴磨きにも終わりがない。子供の成長を見守るようなものだろうか。
Dec 04, 2007 (Tue)
# エノク
エノクは神と共に歩み、神が取られたのでいなくなった。
創世記5章24節
創世記5章はアダムの系図と言われている箇所だ。
Aが何歳になったとき、Bをもうけた。Aは、Bが生まれた後、何年生きて、息子や娘をもうけた。Aは何年生き、そして死んだ。
というパターンで淡々と書かれている。例外が21〜24節に登場するエノクだ。引用した聖句に記されているとおり、彼は死んだ、と書かれていない。
エノクは神と共に歩み、神が取られたのでいなくなった。
「神と共に歩み」という記述も類を見ない。「神と共に歩む」という表現が具体的にどのような生き様を指すかについて聖書は触れていない。ただ、想像するに、エノク一人が「神と共に歩む」と記されているので、普通に生きているだけでは「神と共に歩む」ことの実践にはならないのだろう。エノクの箇所を読むことによって、意識的に主を待ち望み、応答に答える大切さを見た気がする。
Dec 08, 2007 (Sat)
# 塩狩峠、愛と死の記録
三浦綾子さんの名作『塩狩峠』のモデルとなった長野政雄氏を追ったドキュメンタリー。
クリスチャンの方ならたいてい読まれていると思うが、そうでない方のためにポイントを書いておこう。時は明治時代、北海道旭川の鉄道員で、熱心なクリスチャンだった長野政雄氏。彼は伝道で列車で旭川に帰るところだった。難所の、塩狩峠に差しかかったとき、自らが乗車する客車が、突然連結器が外れて後ろに走り出す。それを長野氏は身を線路に投げ出して、自分の肉体をもってして暴走を止めた。
長野氏の遺言によって日記などの記録が償却された状況で、著者は、長野氏をたどる旅を始める。遺族や教会関係者を休みごとに尋ねては失われた記録を復元してゆく。ほぼ構想10年、取材5年。そして分かったことは、小説『塩狩峠』にあるように、長野氏は本当に小説に書かれているような立派で謙虚なクリスチャンだということだ。日曜学校の校長をしていて、日曜学校は大勢の生徒があふれている。生活態度の悪い同僚と同居して振る舞いを治すなど、まさに小説『塩狩峠』のままだ。もちろん、小説『塩狩峠』が長野氏をモデルにしているから当然と言えるが、その長野氏の事実を確認できただけでも本書の意義がある。なお、巻末には長野氏の足跡をたどるうえで貴重な資料集がまとめられている。
ところで、ここからはkayakayaの私論だが、気をつけねばならないことは、長野氏の生涯は立派だった、だから、見習わねばならない、と簡単に結論づけてしまうことだ。長野氏の生涯は長野氏の物であり、他の人の誰のものでもない。長野氏のような立派な人を真似しようとしても、下手をすると、ファリサイ派や律法学者のようになるだけだ。彼の生き様から何を学ぶかは大切なことだと思うけれども、長野氏たらんとすることは、自らを失い、主からいただいた自らの賜物を無駄にすることではなかろうか。本書を読む目的は、長野氏を真似するためではなく、自らの信仰を自らで確かにするためにあると思う。
Dec 09, 2007 (Sun)
# メモリが安いよ
kayakayaの唯一のPC*1、Dell Precision 670用のメモリが512MB×2で6,060円で売られている。先週見たときは8,000円台だった気がする。下落しているなぁ。買おうか悩んでいる。 ところで、Precison 670のCPUはIntel-VTやAMD-Vなどの仮想化技術に対応していないPentium 4だ。仮想化ソフトウェアを多用しているので、次期PCは仮想化テクノロジー対応のCPUにしようと思っている、と書いても、もう大半が対応しているのじゃないかな。で、仮想化対応のPCが欲しいのですよ。そのため、あまりPrecison 670に投資したくない心理がある。だから迷っているというお話。うーむ。
*1 ワークステーションといったほうが正解かも
Dec 10, 2007 (Mon)
# 不信心な者だからこそ
今日読んだ聖句から
ところで、働く者に対する報酬は恵みではなく、当然支払われるものと見なされています。しかし、不信心な者を義とされる方を信じる人は、働きがなくても、その信仰が義とされます。
ローマの信徒への手紙4章4〜5節
「不信心な者を義とされる方」という表現が目についた。そうか、神は、不信心な者*1だからこそ救われるのかと。罪人*2こそが救われるのだ。主イエス・キリストを信じて洗礼を受けているけれども、今まで、罪のことは意識してこなかったし、ほとんど知らない。けれども、今日、罪ついて、何かストンと落ちた気がする。もちろん全てを知った訳ではない。ただ、片鱗をのぞかせていただいたという感じだ。
この聖書箇所は、「神を信じる人は、その信仰が義とされます」とは書いていない。「不信心な者を義とされる方を信じる人」とわざわざ丁寧に書いている。そこに注目しなければならない。自分が不信心な者、罪人であることを意識することが求められてるのだろう。まさしく「義人なし、一人だになし」なのだ。不信心なものですけれども神さまは私を救ってください、こういう思いが救いには必要なのだろう。
ここで、思い出す、主イエスのたとえ話がある。ルカによる福音書18章9節からの「ファリサイ派の人と徴税人」のたとえだ。神殿で、胸を張って罪がないことを誇るファリサイ派の人に対して、徴税人は『神様、罪人の私を憐れんでください。』とだけ言う。義とされたのはファリサイ派の人ではなく徴税人だった。
主イエスは徴税人のように「へりくだる者は高められる」と言う。へりくだる、この言葉からは様々なことが想像できるけれど、kayakayaは「神の前では、いや、誰の前でも、本当に私は無力で心弱き者です」ということを意味していると思う。
不信心な者でありたいと書くと変な気がするけれども、誰の前でも無力で心弱いものでありたいと表現するとしっくりくる。でも、同時に、kayakayaは日記で聖書の知識をひらかすんじゃないよ、という告白、さらにはその告白がいいカッコしいなことも事実だと認識している。本当に、神の前で無力で心弱気ものであることは難しい。
Dec 16, 2007 (Sun)
# tDiary 2.2.0になったのはイイけれど
tDiary 2.2.0がリリースされたので、さっそくkayakaya日記も更新した。ただ、作業途中でミスってしまったので、しばらく見られない時間を作ってしまい、これでもエンジニアかよ、とヘコむ。
しかしながら、バージョンアップできても、問題が幾つかあって困っている。
- Amazonプラグインが使えない
- 選択されているのに有効にならない現象が発生
- 当然書影も表示されない
- Flickrプグインが使えない。エラーになるのでプラグインディレクトリから外した。
- Tagcloudが表示できない。こちらは強引なやり方なので動かなくてもしかたがないかも。
しばらくあがこう。うーむ。
# 2.2でAmazonプラグインが表示されない場合の回避策
セキュアモードをfalseにしたら、Amazonプラグインが使えるようになり、タグクラウドも表示できるようになった。ひょっとしてkayakaya日記は元々セキュアモードがfalseだったのかしらん?今までは特に指定してなかったけれど、デフォルトはどちらなのだろう?また明日調べてみよう。
Dec 17, 2007 (Mon)
# ヒリヤード・アンサンブルの芸術
以前、新星堂に、『ヒリヤード・アンサンブルの芸術』というCDが置いてあった。中身はルネサンス時代の宗教音楽。作曲者はジョン・ダンスブル、ギヨーム・デュファイ、ヨハンネス・オケゲムそしてジョスカン・ジョスカン・デ・プレ。古楽好きなkayakayaとしてはとても気になるCDだった。ただ、値段が4枚組6,000円とリーズナブルではあるけれど、中身が分からないのだから、おいそれ簡単に買えるものではなかった。ヒリヤード・アンサンブルは古楽で有名な声楽グループだ。けれども、kayakayaはそのCDを初めて見たときは名前すら知らなかった。その後、古楽の至宝とまで呼ばれるほどの合唱団と知った。
ところで、先日、図書館でヒリヤード・アンサンブルのCDを借りてきて、初めて彼らの演奏を聴いた。背筋がゾクゾクっときた。実にいい演奏だった。これは、『ヒリヤード・アンサンブルの芸術』は買いだなと思った。けれども、現在は新星堂が近くにない。Amazonなどで検索してもでてこない。実は、『ヒリヤード・アンサンブルの芸術』は新星堂、タワーレコードそれに山野楽器が提携したレーベルCento Classicのものだった。しかもAmazonでは取り扱っていないのだ。タワーレコードではすでに販売終了で、もう手に入らないのかな、と思ったら、山野楽器のネット販売で在庫があった。2004年9月にリリースされて店頭に並んで見たときから3年たった今、ようやく『ヒリヤード・アンサンブルの芸術』が手元に届いた。
# tDiary 2.2設置その後
tDiaryドキュメント amazon.rbによると、Amazonプラグインで書影を表示させるには非セキュアモードでないとダメらしい。2.2の導入にあたって初めてセキュアモードの設定をしてトラブったということは、デフォルトではtDiaryは非セキュアモードなのだろう。本当はソースを読んだりしなくちゃいけないのだろうけれど、それは今後の自分への課題として残しておこう。
Dec 18, 2007 (Tue)
# マリア
映画『マリア』を観賞した。ネタバレになるので、詳しくは書かないが、マタイとによる福音書とルカによる福音書をベースに、マリアの受胎からイエスの誕生までを描いている。受胎からイエスの誕生に至る経緯は福音書にはわずかにしか記載されていない。その他のシーンをどう脚色するか、そこにこの映画はかかっていると言えるだろう。そこが『パッション』と違うとところだ。『マリア』のkayakayaの評価としては、留保付きの良、といったところだろうか。妊娠してしまったマリアの苦悩、受け入れるヨセフの決断、夫婦愛それらがよく描かれていると思った。映画のタイトルは『マリア』だけれど、公式サイトのドメインは、Mary and Josephとなっているところにも、マリアだけではなくヨセフの物語でもあることを感じさせる。
ただ、いただけないな、と思ったのが、東方の三賢者の道具だ。当時としては高度過ぎる天体観測器が出てきたり、大きなボウルいっぱいの水の表面に星がゆらいでいてそれでイエスの誕生を知るといったシーンには興ざめしてしまった。もっと素朴でいいでしょ、と思うんだけれど。
あと疑問だったのは徴税をローマ兵が行う場面がある。ローマからユダヤ人の徴税人に徴税権を与えたので、ローマ兵が直接するのだろうか、と少し疑問に思った。本当のどころはどうなのだろう。で、手元の聖書辞典を紐解いて見たところ、徴税人とは関税の取り立てに携わっていた人を指すようだ。人頭税など直接税はローマの官憲が関わっていたのかもしれない。ま、この辺りは物語とはあまり関係がないのでスルーするのがよろしいかと。
この2点は予告編にもあるので、ネタバレではないから書いておく。
ところで、『マリア』の公式サイトってOperaやFirefoxでは閲覧できない。Operaはともかく*1Firefoxくらい対応しておきなさいって。
*1 全然良くないけど
Dec 27, 2007 (Thu)
# 年賀状に関するお知らせ
今年も残りわずかになりました。
さて、kayakayaから少し残念なお知らせがあります。 年賀状を書く気力・体力がないため、また、昨年の年賀状が手元になく住所確認ができないため、2008年の年賀状は返事のみ出させていただくことにします。よろしくお願いします。
年間聖句(2010年)
あながたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。
新共同訳聖書ガラテヤの信徒への手紙3章26節You are all sons of God through faith in Christ Jesus. for all or you who were baptized into Christ have clothed youselves with Christ.
Galatians 3:26-27 (New International Version)


_ どんたろう [シンプルでとてもきれいです!(‐^▽^‐)]
_ kayakaya [ありがとうございます、ぺこり。]