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kayakaya日記


2007-09-02

# 聖餐について雑感 del.icio.usに追加 はてなブックマークに追加 livedoor クリップに追加 Buzzurl に追加

聖餐について個人的に思うことがあるので書いておく。kayakayaは聖餐はできれば毎週の主日礼拝ごとに執り行うべきだと考えている。その聖餐にはいろいろな側面があるので、一つ一つを簡単に取り上げてゆこう。

まず、聖餐という儀式は、主イエスの最後の晩餐を追体験できるものだ。それも1回だけではなくて、聖餐式毎に最後の晩餐を思い出させてくれる行事である。霊的な追体験と言えるだろう。

そして、ぶどう酒とパンに象徴されるイエスの血と体は、契約と贖罪、代償というキリスト教にとって3つの大きな意味を持つ。契約とは、主イエスの死によって、神<God>との新しい契約を指す。いわゆる新約聖書の新約である。このことは少しでもキリスト教をかじったことのある人なら分かるだろう。贖罪とは罪の赦しのこと。罪人であるとされる私たちが主イエスの死を媒介にして、罪を赦される。代償とは、主イエスの死そのもののこと。罪人である私たちのために命を捧げてくださったことを指す。ただ、正直、kayakayaは贖罪や代償のことはよく分からない。ただ、聖餐と贖罪とは密接につながっていることだけは理解しているつもりだ。ここでは、主イエスの死による新しい契約の成立と贖罪、代償を、聖餐が象徴していることを強調したい。

また、聖餐は信仰を、言葉だけではなく、五感で体験するという側面もある。イエスさまがそこにいるんだね、ということを霊的な感性だけではなく五感でも受けとめられる。このことも大切な要素だと思う。

このような聖餐はキリスト者にとってとても大切な儀式であるけれども、大事だからと言って金庫にしまっておくように、聖餐を滅多に行わない、というのは良くないと思う。大事だからこそ、毎週やってもいいはずだ。何しろ主日礼拝というのは、キリストの復活した曜日の礼拝だ。復活と十字架はセットである。また十字架と最後の晩餐もセットだ。主日の度に執り行って、キリストの霊的な存在を確認し、神さまとの契約があることを感謝し、五感で信仰を強める、これがkayakayaの考える聖餐だ。

わたしがあなたがたに伝えたことは、わたし自身、主から受けたものです。すなわち、主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りをささげてそれを裂き、「これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。また、食事の後で、杯も同じようにして、「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲むたびに、わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。だから、あなあがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。

コリント人への手紙第一11章23〜26

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_ Fsitolwi (2008-05-25 06:26)

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年間聖句(2008年)

わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。

ヨハネによる福音書15章5節(新共同訳)

I am the vine; you are the branches. If a man remains in me and I in him, he will bear much fruit; apart from me you can do nothing.

John 15:5(New International Version)

日記に関する注意書き

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